日语毕业论文提纲
时间:2023-09-01 09:04:06
下面是小编为大家整理的日语毕业论文提纲,仅供参考,喜欢可以收藏与分享哟!如果这11篇文章还不能满足您的需求,您还可以在本站搜索到更多与日语毕业论文提纲相关的文章。
篇1:日语毕业论文提纲
毕业论文,是大学本科教学的最后一个环节。
是对整个大学阶段学习的回顾与总结,是学生综合能力的体现,也是对学生的一次语言及相关科学研究的一次基本训练,因此,要求学生以高度认真负责的态度对待此项工作。
(相关资料图)
做好毕业论文的指导工作是整个大学教学和教育的重要和必要内容,也是理论教学的重要组成部分。
每一位教师都要以高度的社会责任感和敬业精神投入到此项工作中去,指导学生顺利完成毕业论文任务。
二、毕业论文的选题范围及基本要求
日语专业主要是以为外事、新闻、教育、旅游、经贸以及科研院所提供高素质日语人才为培养目标,因此,毕业论文的选题应与本专业的专业特点和培养目标密切相关。
选题应集中在语言学、语法、日本文学、翻译、教学法、中日文化比较等领域。
毕业论文必须用日语撰写,要有一定的新颖性和学术性,应尽可能多的反映中日两国的政治、经济、教育、历史、文化、宗教等方面的实际问题和热点问题。
三、毕业论文的资料组成
毕业论文包括学校统一印制的毕业论文资料袋、装订完毕的毕业论文原件、毕业论文任务书、毕业论文成绩评定表、毕业论文答辩提问记录及软盘等。
毕业论文封面、论文纸、毕业论文任务书、毕业论文成绩评定汇总表、毕业论文答辩提问记录均为16开打印纸,学校统一模板格式。
毕业论文资料袋按要求认真填写,字体要工整,卷面要整洁,一律用黑或蓝黑墨水。
四、毕业论文的阶段及要求
论文工作主要分以下几个阶段:准备(资料的收集与整理、阅读文献)、撰写提纲、第一稿、第二稿、第三稿、定稿与答辩。
(一)准备:学生可以自由选择研究范围(语言、文学、文化、社会问题、日本文学、经济、贸易、科技、社会生活等),但要在教师的指导下对研究对象进行资料的收集整理和分析来确定毕业论文题目。
(二)撰写提纲: 学生在指导教师的指导下分析和研究所采集的资料的基础上,撰写毕业论文提纲。
同时也要求每一位指导教师在学生形成毕业论文提纲前一定要与每位被指导的学生进行讨论,毕业论文提纲应尽量做到全面缜密,理顺所要论述内容,避免以后反复修改。
(三)第一稿:要求学生必须严格按照指导教师审定后的毕业论文提纲进行写作, 不可自行其是,随意更换主题。
第一稿完成以后,指导教师主要检查学生是否按照既定的提纲和思想在写作,及时发现问题及时纠正。
如学生采取不认真的态度,指导教师应对其提出严肃的批评教育,拒不接受者,指导教师有权提出相应的处理意见,或交学院毕业论文工作小组处理。
如果指导教师不认真指导,随意放学生过关,以后阶段出现的问题由该教师本人负责。
(四)第二稿:要求学生不仅要继续补充第一稿之不足,同时要求在表达上要有所提高。
在接到第二稿以后,指导教师阅读后应指出存在的问题,以便学生及时改正。
(五)第三稿:要求学生在文风、文章格式、修辞等方面有所提高。
指导教师要对第三稿进行全面的审阅,并提出修改意见,以保证定稿打印时所有的错误和疏漏都得到更正,错误率控制在规定范围内。
同时,教师还要提醒学生在打印前再校对,以保证尽可能地将正确的版本打印出来。
(六)毕业论文答辩:毕业论文的答辩是毕业论文工作的最后阶段,要求学生予以充分的准备和重视。
论文答辩前,学生们必须充分熟悉论文,答辩时,要求学生能脱稿进行5~10分钟的毕业论文内容的陈述,并流利、准确地回答答辩委员提出的问题。
在答辩过程中,参加答辩的教师要对答辩人的.语言技能(语音、语法、词汇、语用)、口笔头能力、论文内容和答辩的表现进行认真纪录,客观公正地评分。
五、毕业论文质量标准
(一)选题恰当、与毕业生的知识水平与认识能力相当;
(二)内容丰富、资料翔实、论证充分有力;
(三)观点正确、逻辑性强、无违反国家大政方针的观点;
(四)叙述清楚、层次清晰而丰富;
(五)语言表达正确,无拼写错误、语言错误控制在20-25%00(万分之二十到二十五);
(六)用词、造句、谋篇、布局等方面无明显失误,修辞错误率控制在2%。
如何写好毕业论文之主题与大纲
通过阅读文献等各种资料也能够找到论文主题,对论文主题犹豫不决的不妨先通过搜寻资料再做确定。
通过OPAC等各种检索系统可以搜索到很多资料,一些重要文献资料可以寻求老师的帮助。
通过阅读搜寻到的资料和资料后的参考文献,检索主题相关的资料,还可以看看相关学会、研讨会的草稿集和论文集。
阅读论文一开始对我们来说有点困难,不妨可以先看看简单的草稿集或书籍。
一旦发现想写的主题,不妨再进行深入研究,由于自己的主观臆想或无知,在主题判断上仍有不足,寻求朋友和老师的意见就显得尤为重要。
通过议论商讨得出简单明了的论文标题,那么需要研究的论文大纲(需要调查什么、研究什么问题、对结论的设想、如何调查)也就随之而来了。
(这一步作为论文序言的基础,决定了论文大纲的制作。
)论文标题不能太宽泛,应该在自身能力范围之内锁定主题,这一点也许比想象得还困难,中途研究方向和主题也常常发生改变。
由于毕业论文的题目必须在5月份确定,所以在考虑论文题目时最好留点修改空间,稍微模糊一些的题目更安全。
篇2:日语毕业论文
日语极富变化,不但有口语和书面语的区别(书面语的替代符号非常多),还有简体、礼体(现代归类到敬体中)和敬体、普通、礼貌(现代归类到郑重中)和郑重、男与女、老与少的区别。不同行业和职务的人说话也不同。
最新日语毕业论文范文一:
中日「美人を名花に譬える」F象における一考察
DD『源氏物Z』と『t楼簟护蛑行膜
要旨
中国の文学作品であろうと、日本の文学作品であろうと、「美人を名花に譬え」という描写法はよくみられる。『t楼簟护稀钢泄四代名著」の一つとされて、中国小h史上で最高の作品と言われる。『源氏物Z』は世界で最古のL写g小hとして、よく日本の『t楼簟护趣い铯臁⑹澜缥难史上も大切な地位を持っている。
そして、この二名著は同じに々な美しい女性を描き出した。そこから「美人を名花に譬え」という特栅颏蓼趣幛椁欷搿1靖澶稀该廊摔蛎花に譬え」というF象で、例の比^を通して、共通点と相`点を探り出したい。共通点から、中国も日本も花に同な美Qを持っている原因を表明したい。そして、共通点のYにLした相`点の原因を分析したい。
キ`ワ`ド:源氏物Z、t楼簟⒚廊恕⒚花
摘要
中日两国都有“名花喻美人”的习惯,特别是文学作品中多有出现。《红楼梦》是我国四大名著之一,是中国小说史上的巅峰之作。《源氏物语》是世界上最早的长篇写实小说,被称为日本的《红楼梦》,在世界文学史上占有相当重要的地位。
这两部世界文学巨著,都描绘出了姿态万千的绝色女子,而且两部作品中有一个共同的特征――名花美人互喻。本文将通过对名著中“名花喻美人”的实例进行比较,分析存在这一共同现象的原因。同时基于这一共性来分析其差异性,进而揭示这一现象体现出的文化差异,并对其原因进行考察。
关键词:源氏物语,红楼梦,名花,美人
目次
要 旨
摘 要
はじめに
1先行研究
1.1『t楼簟护位à摔膜い皮窝芯
1.2『源氏物Z』の花についての研究
1.3 研究の目的と意x
2 二名著から登訾工朊廊摔蚧à似─à肜とその原因
2.1美人を花に譬える例
2.2その原因
3 二名著における美人を花に譬える例の相`点とその原因
3.1相`点
3.2その原因
おわりに
参考文献
x 辞
はじめに
中国の文学作品であろうと、日本の文学作品であろうと、「美人を名花に譬え」という描写法はよくみられる。_かに、花と女性は`う分野での美の化身で、「美」は花と女性の共通点である。しかし、美人を名花に譬える原因はただそこにとどまるのか?ほかに何かの原因がLしたのか?そして、同な文学F象であっても、中国と日本のはどんな`うところがあるのか?どんな文化唤yと文学唤yによって、そんな`いを招いたのか?したがって、中国と日本の小hを比^して、以上の}を研究しようと思う。
『源氏物Z』は物Zとしての虚の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧@、あるいはその文章の美と美意Rのさから日本文学史上最高の茏鳏趣丹欷搿!甘澜缱罟扭伍L篇小h」というuもある。『t楼簟护稀钢泄四大名著」の一つとされて、中国小h史上で最高の茏鳏妊预铯欷搿Cg|も壅iし、『t楼簟护蛑泄封建社会の百科辞典と称されている。中国芸g研究院副院Lc善のでいえば、世界文学史上、『t楼簟护郅墒澜绀扦饯螭胜冥び绊を与えた小hはなかったという。
『源氏物Z』であれ、『t楼簟护扦れ、世界文学史で大切な地位を持っており、それぞれ日本と中国の代表作である。二つの作品もそれぞれの国でもっとも典型的な小hで、既に形成された文化唤yや文学唤yも克明にされた。ですから、「美人を花に譬え」というF象をこの二つの名著において研究すれば、もっとも赝のあるYをまとめられると思っている。したがって、『源氏物Z』と『t楼簟护趣いΧ名著をxんだ。本稿は『源氏物Z』と『t楼簟护摔ける、「美人を名花に譬え」というF象で、例の比^を通して、共通点と相`点を探り出したい。共通点から、中国も日本も花にどんな美Qを持っている原因を表明したい。そして、共通点のYにLした相`点の原因を分析したい。
1 先行研究
1.1『t楼簟护位à摔膜い皮窝芯
F在、国内外でも『t楼簟护取涸词衔镎Z』にvしての著と文が多い。そして、「美人を花に譬え」というF象においての文と著作も少なくない。国内では、北京Z言大学hZ学院の周思源は「t楼簸诬啃g魅力」という文で、『t楼簟护扦蜗招预人物の\命やh境などにして表Fしただけではなく、建物や器物や草花やの`などのかいところまでによって表Fしてきた。また、『t楼簸作方法』という著で、象招预虮恧工郡幛摔瑜物象符号系yを用いた。花もその中で大切な物象であるという。『t楼簟护蜓芯郡工T家の周汝昌は『t楼簸诬啃g魅力』と『t楼小v』でそう述べた。曹雪芹が花をして『t楼簟护闻性イメ`ジを作り、女性のY末もそれによって暗示された。さらに、『t楼簟护闲陇筏て独特な『群花V』となされる。
国外では、日本学者の伊藤漱平の《『t楼簟护遂钉堡胂栅趣筏皮诬饺丐壬と-林黛玉、晴ブンKびに香菱の龊稀筏壬中美浃巍丁杭t楼簟护沃肖魏L-簸问澜绀爽FgをつめてDいた花-》二つの文で、『t楼簟护悉瑜花を用いて女性イメ`ジを象栅筏郡长趣蛱岢訾筏啤⒕咛宓膜肆主煊瘠淝绁芝螭趣いθ宋铳ぅ岍`ジを分析した。
1.2『源氏物Z』の花についての研究
『源氏物Z』にvして、国内では上げればきれないほど多い。1936年、周作人は『日本文化』という文章の中で「源氏物Zはまさに日本のt楼簸馈护いていて、始めて『源氏物Z』を『日本のt楼簟护群簸螭馈6十世o八十年代、N子黏巍涸词衔镎Z』の中国ZU本が世にいた後、中国の『源氏物Z』についての研究が始まった。四川外国Z学院の教授姚继中は著作の『「源氏物Z」と中国文化』でそういう点を提出した。『源氏物Z』が日本唤y文化と文学に生じたものだが、それと同rに中国唤y文化の精Aも入れてzんだという。そして|方文化を研究しているT家叶渭渠は『日本文学史』と『日本文明』で、『源氏物Z』が体Fしてきた教Qや自然Qや美Qなどと中国文化と文学とのvSを述べた。そして、『源氏物Z』と『t楼簟护比して、相`点と共通点を指摘した。また、国内で『源氏物Z』の登鋈宋铩たとえば源氏光や紫の上、玉N、末摘花、朝などについての文と著作も多い。
日本では、芳R矢一は彼の著『国民性十』と『日本人』でそう述べている。『源氏物Z』であっても、その中から出た和歌であっても、花に好んで、よく花のことを描写して、人を花にたとえる。それは、R作文化によって形成してきた日本人の新植物性という影が文学に及んで、そういう文学唤yが定まったからである。そして、日本の学者青木登は『源氏物Zの花』という作品で述べたように、「季を彩る花、その移ろいの中に「源氏物Z」の世界は展_された。全五十四帖に登訾工牖à蚋魈ごとに取り出し、その花を通して「源氏物Z」の世界を旅する。」
1.3 研究の目的と意x
上述のように、国内外でも、たくさんの学者や研究者は『源氏物Z』と『t楼簟欢つの作品において、多くの著や文を作り上げて、その二つの作品から表Fしてきた「美人を花に譬え」という描写についても研究した。しかし、その文学F象を二つの作品において比べて研究することはまだない。そして、大部分の研究者はただそのF象の共通点を探し出して、共通点のYにLしていた相`点がつからなっかた。私の文の目的は例の比^をして、共通点と相`点を探し出し、それぞれの原因をつかり、「美人を花に譬え」という描写を通して、中日文化と文学のそれぞれの特性を探求したい。それによって、中日の「花を美とする」という共同の美Qがあるので、日本と中国の文化や文学の相互理解と交流を深める。
2 二名著から登訾工朊廊摔蚧à似─à肜とその原因
2.1 美人を花に譬える例
上述のように、二つの小hも一人の男子をめぐってg山の女性を描いたとか、共に国内でも世界でも大切な地位がもっているとか、いろいろな共通点をもっている。しかし、その二つの小hをよくiむと、ある共通点を出さなければならないと思われる。それは花のことである。それでは、『源氏物Z』と『t楼簟护沃肖ら出てきた女性を花に嗓à坷をい菠皮撙瑜Α
まず、『源氏物Z』からてみよう。『日本文学事典』で述べたように、『源氏物Z』という作品の中に、自然にvしての描写であろうと、人物にvしての呼称げあろうと、嗓趣てもきれないvBをもっている。その通りで、『源氏物Z』の女性例えば夕、常夏、末摘花など直接に植物の名称によって命名することは明らかである。
具体の例をてみよう。紫の上は登訾工rは三月の三十日だったので、京の@はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに荬扭い俊¥饯筏啤⑨幛堑訾工胱悉紊悉@に譬えた。[4]
源氏は六条のF女を名花に、中将を朝に譬えた。また、末摘花をt花に譬えた。「高くLくて、先のほうが下に垂れた形のそこだけが赤かった。」という。それは彼女の鼻の姿である。赤いから、彼女をt花に譬えた。[6]
夕は源氏と出会ってから、夕に譬えた。また、「山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ嶙婴温丁工趣いυで夕は自分の子供即ち玉Nに可郅る莩证沥虮恧工郡幛恕⒂耵Nを嶙婴似─à俊[7]
_かに日本学者青木登は『源氏物Zの花』という作品で述べたように、「季を彩る花、その移ろいの中に「源氏物Z」の世界は展_された。全五十四帖に登訾工牖à蚋魈ごとに取り出し、その花を通して「源氏物Z」の世界を旅する。」
そして、『t楼簟护蛞てみよう。『t楼簟护堑訾筏颗性は108余りに_したが、それぞれの性格でも容貌でも`って、よく後世の人々に感心させる。gは、『t楼簟护恰⒉莼à雒妞诉m辘丹护毪郡幛坤堡扦悉胜、黛玉の潇湘馆であっても、宝钗の蘅芜苑であっても、その名も主人の葙|を引き立てたと言えよう。また、大Q@の人々が集まってを作る「海棠社」も白い海棠によって出た名で、芒NのH、花神を祭るために、黛玉は後世の人々に机を叩いて~mさせる「葬花~」を作った。
もっとも例とい菠椁欷毪伽なのは宝玉のQ生日に行った「行名花令」、巧みにそれぞれの女性を各自の萘て、L姿、性格、Y末とm辘工牖à似─à俊
黛玉は芙蓉という`を引いて、`の上に「L露清愁」をいて、傍らに「ほかの人よりずっと美しい女性はよくないY末にすむ。黛玉を芙蓉に譬えた。
宝Oは牡丹という`を引いて、`の上に「F冠群芳」をいて、傍らに「情けない人は彼女をたら、心がeれる[10]」という小さい字がいてある。宝Oを牡丹に譬えた。
探春は杏の花という`を引いて、`の上に「|池仙品」をいて、傍らに「太に近い赤い杏はの[11]」という小さい字をかいてある。探春を杏の花に譬えた。
麝月は^巾N薇という`を引いて、`の上に「tA盛O」をいて、傍らに「^巾N薇まだDかないとき、ほかの花は全部零れた。[12]」という小さい字をいてある。彼女を^巾N薇に譬えた。
そのほかに、李纨を老梅に、湘を海棠にたとえた。u人を桃の花にたとえた。それは、たしかに『t楼簟护蜓芯郡工T家の周汝昌は『t楼簸诬啃g魅力』で述べたように、『t楼簟护闲陇筏て独特な『群花V』となされる。
2.2 その原因
なぜ『源氏物Z』も『t楼簟护馀性を花に譬えて、すなわち女性の美しさを花にして表すのか?その原因は以下の二点をい菠椁欷搿
第一は、花と二つの作品から登訾工肱性とのがりである。どんながりを持っているのか?まずは美しいことである。そして、悲・摔胜毪长趣扦る。
花というと、人々に美しさと甘い香りを感じさせる。花は植物界の精Aで、古代から今まで人々の心の中で美の代名~とされる。花は美しい。花も女性も美しいからこそ、彼女らを花に譬えて表Fする。しかし、どんなに美しい花であっても、いつか萎れる。そして、そのいつかはL年後の将来ではなく、まもなくの将来である。それからみると、二つの名著と花の特性とのがりはいったいなんでしょう。
紫式部は『源氏物Z』で主に源氏と女性との矍樯活を描写したのにえるが、それはg的に矍樯活を描くことではなく、源氏の恋邸⒒橐訾蛲à筏埔环蚨嗥蓼趣いχ贫趣酥配された女性たちの惨めな\命を明らかに示したためである。日本のs史からると、平安r代のF族社会では、男女の婚姻はよく政治上の利益にがって、政治L争の一つの手段にされたことがよくわかる。紫の上は理想の矍椁蚴证巳毪欷胜い强啶筏螭强啶筏螭撬坤螭扦筏蓼盲郡长取⒖詹酩献苑证呜を守るために、Tに入ってgんだことなど、いろいろある。紫の上など、どれも花でもuしいほど美しい容貌をしていたが、死ぬまでも不合理の婚姻制度に苦しめて、惨めなY末にった。だから、『源氏物Z』は女性の悲・妊预à瑜Α
こういう点では、『t楼簟护猡饯Δい共通点を持っている。十八世oの封建社会の末期、韦辘畏饨礼教と女性に求められた封建的な基实渊DD三兢人预R迫下、な心と矍椤⒒àuずかしいほど美貌をもっている少女たちが惨めな\命から逃されない。花と名著から出た女性たちは、同に美しくて、最後に悲・摔胜盲皮筏蓼盲俊W鲜讲郡炔苎┣郅悉饯ΔいΦ悚蛞て、女性を花に譬えた。花のように美しい女性たちは花のように萎れて悲・摔胜盲皮筏蓼盲窟\命から逃されないことを表Fしたがると思う。
第二、中日文化唤yの共通点はもう一つの原因である。中国では、花文化は古代から今までAいてくる。花にvしてのdは、中国の商のr代の甲骨文にFれた。楣r代、孔子は「mは花王にあたり」と言った。隋唐宋r代、中国の花文化は非常に盛んになって、花にvする文学作品もいっぱいであった今になって、多くの中国人が花を育てることも、花で部屋をることも、中国の花文化はもっと盛んになって、もう生活の各方面に染みzんだ^である。
それでは、日本のほうへよう。「日本文化の形Bは植物の美学に支えられてきた。日本人にとって言えば、自然は神である。生活には自然という神がなくては、生活にならない。さらに言えば、日本のs史もないという。」ある日本学者はそう述べた。もちろん、木は古代ではもっとも体表的な物象で、古代の日本人の自然Qの基Aにされた。しかし、木と花は切ても切れないvSをもっている。相当の植物にとっては、その植物は木だけではなく、花である。そして、花は元来大自然の中で不可欠の部分である。日本人にとって、花茶は「日本唤y美の三重奏」といわれる。平安r代までLいg日本人の心に根差した日本人の原始的な自然Qそこから生まれた美Qかられば、花も日本人にとって一つの唤y美であると言えよう。
要するに、花は中国人にとっても、日本人にとっても、ひとつの唤y美である。それは、中日唤y文化が花にしての共通点である。
3 二名著における美人を花に譬える例の相`点とその原因
3.1 相`点
第二章に述べたように、『源氏物Z』と『t楼簟护照してれば、二つの名著とも花にして女性形象を描写した。それは共通点である。しかし、人は共通点を探し出すだけに鹤悚工伽ではなく、共通点のYにLしていた相`点をkFすべきである。なぜかというと、相`点を通してこそ、中日gの文学と文化の`いをkFできる。
その一、『源氏物Z』は女性を花に譬えた龊稀ある花をつけて、後で登訾工肱性をその花に譬えた。あるいは、その女性の姿によってそれと相辘工牖à蜻xんでその花に譬えて、女性の名も花の名で命名したまでである。すなわち、作者は女性を花に譬えた目摔吓性の姿を{しようである。それにたいして、『t楼簟护悉窑趣膜闻性に辘工牖à蜻xkするr、重点は女性の姿に置いたのではなく、女性の性格、葙|、\命に置いた。言いQえれば、{する象は`っている。
それでは、そのF象の例をてみよう。紫の上は登訾工r、源氏は下痢にかかって、北山の某という寺へいこうとして、これは三月の三十日だったので、京の@はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに荬扭い俊¥饯筏啤⑨幛堑訾工胱悉紊悉@に譬えた。
源氏は「Dく花に移るてふ名はつつめども折らで^ぎうき今朝の朝。どうすればいい」を言ったr、六条のF女を名花に、中将を朝に譬えた。
『t楼簟护恰⒉苎┣郅削煊瘠蜍饺丐似─à俊\饺丐瞎糯から中国の人々にほかの花と比べると比べられない美をもっている。それは上のイメ`ジである。品|上では、身を清く保ち、に染まらないということである。また、中国人は美人を形容するr、よく「出水芙蓉」という言~をよく使う。要するに、芙蓉は中国人の人々の心の中でもっともいいu判のある花だといえよう。黛玉は芙蓉のような身を清く保ち、に染まらないという品|を持っている。
そして、黛玉の性格は人に与えた印象も芙蓉とは同じであることといえよう。それに、名利と地位に屈服しない点では、宝玉と黛玉は一致している。彼らはお互いに相手をその世で唯一の知己として大切にしている。だから、宝玉と黛玉の矍楸・悉丹椁苏i者の同情と残念の莩证沥虿─筏俊
以上の分析によって、『t楼簟护潜嗓沃氐悚先宋铯涡愿瘠葙|に置くのは明らかであろう。
その二、『源氏物Z』という名著で一つの女性に辘工牖à衔ㄒ护扦悉胜、よく登鋈宋铯蔚rの感情を述べるために、辘工牖à浃à搿¥饯欷して、『t楼簟护先宋铯味捞丐萘てを表Fし、Y末を暗示するために、一つの女性は唯一の花に辘贰⒆苑偈证辘工牖à浃à胜ぁ@えば、第二回「帚木」で^中将は自分のせいで夕にxれられてから、彼女にするかしい莩证蚴訾伽毪郡幛恕⑾を常夏に譬えた。しかし、夕は源氏と出会ってから、夕に譬えた。
『源氏物Z』にして、『t楼簟护龊悉悉饯Δ扦悉胜ぁ!杭t楼簟护潜Oを牡丹に、探春を杏の花に譬えた。李纨を老梅に、湘を海棠に譬えた。麝月を^巾N薇に、黛玉を芙蓉に譬えた。それは周汝昌は『t楼簸诬啃g魅力』で述べたように、「『t楼簟护扦稀それぞれの女性を各自の萘て、L姿、性格、Y末とm辘工牖à似─à俊埂1Oはだれも比べられない美貌をもって、度胸があり、いつでも道理が通じる。それは牡丹が中国人に与える印象とよくにている。「黛玉は美しくて、とてもgで、素直で、何が言いようならすぐ言う。そして、彼女は宝玉と同じように、荬饲服しなくて、荬庾芳挨筏胜ぁ¥饯欷稀⒈伺のいった社会背景下では、かなり珍しい。これは、周敦颐の芙蓉を{美する句「出淤泥而不染」と同じで、彼女を芙蓉に譬えた。また、『t楼簟护扦稀⒁护膜闻性は唯一の花に辘贰⒆苑偈证辘工牖à浃à胜ぁ
3.2 その原因
相`点のある一つの原因は日本の持つH植物性である。それはなぜ「女性を花に譬え」というF象で『源氏物Z』は女性の姿を{しているという}を答えられる。R作の栽培は、また日本人の植物にする特eな感情を育てた。それは日本人のH植物性である。
日本人は植物にしてほかの国の人より特eな感情を持っている。H植物性があって、どんなに狭い庭であっても菊、@や松などの植物を栽培し、植物に出会うとかわいいなあ、きれいだなと思い、好きな莩证沥弦证àれないほどである。だから、日本人は文学作品でも、登鋈宋铯自分の好きな女性と出会ったら、「その女性はなんとお美しい、姿も美しくて、なんか花のように美しい」と思うA向がある。
『源氏物Z』で源氏がもっとも好きな女性、紫の上で^明しよう。紫式部は『源氏物Z』で紫の上を二回@に譬えた。まずは、紫の上の出訾扦る。源氏は北山の某という寺へいこうとした。これは三月の三十日だったので、京の@はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに荬扭い俊¥饯筏啤㈤gもなく彼はまだ若い紫の上をて、自分の女にしようと思った。ここで、彼は紫の上を山@に譬えて、彼女にしての好きになった莩证沥虮恧筏俊
もう一つの原因は日本文学の主情性である。主情性はなぜ『源氏物Z』という名著で一つの女性に辘工牖à衔ㄒ护扦悉胜、辘工牖à浃à毪趣い}を答えられる。日本人は自分の感情を第一にしているので、どんな龊悉扦庾苑证莩证沥蚴訾伽毪郡幛恕⑽锾澶擞して具体的に表Fする。
すなわち、日本人は志より、自分の感情あるいは莩证颏猡盲却笄肖摔筏皮い搿¥坤ら、『源氏物Z』で源氏であっても、夕Fであっても、よく自分の目の前の花を折って、手と伴って女性の方へ送り、よく後で出会う女性を当r自分がた花に譬えてその女性の美しさを感心する。
日本文学のH植物性と主情性によって、比嗓沃氐悚蚺性の姿に置いて、譬とする象もよく浃à搿¥筏し、『t楼簟护龊悉潜嗓沃氐悚蛲庥Q上に置くではなく、品|上に置いたと思う。それは中国と日本が花文化にしての`いによって、そのY果がある。我が国の花文化の精は中国Zで言えば「花韵」である。花韵というのは、ある花のL采、品格と特性である。それは外Qのものではなく、内在のものである。
中国人は花の姿より、花の「花韵」をもっと大切にしていることが明らかである。ですから、女性を花に譬える龊稀⒅氐悚蚺性の姿に置くではなく、彼女らのL采、品格と葙|に置いた。したがって、『t楼簟护恰ひとつの女性に辘工牖à衔ㄒ护恰そして、花と女性との性格や葙|上の共通点を通して、比嗓蛳栅NAされた。
要するに、その`いのある原因は日本人のH植物と文学上の主情性と中日花文化の`いである。
篇3:日语毕业论文
おわりに
中国の文学作品であろうと、日本の文学作品であろうと、「美人を名花に譬え」というF象はよくみられる。_かに、花と女性は`う分野での美の化身で、「美」は花と女性の共通点である。
文は『源氏物Z』と『t楼簟护摔ける「女性を花に譬え」というF象について研究した。第二部分が二つの作品のあらすじとuと地位をB介した。第三部分は二つの作品の女性を花に譬える例をどんどん探してい菠啤なぜ二つの作品も女性を花に譬える理由は中日文化は花にする共通点と花と二つの作品から登訾工肱性とのがりである。もっとも大切なのは第四部分で、例の比を通して、`いを探して述べた。それは、次のものである。女性を花に譬える龊稀『源氏物Z』は一つの女性に辘工牖à衔ㄒ护扦悉胜、よく登鋈宋铯蔚rの感情を述べるために、辘工牖à浃à搿¥饯欷して、『t楼簟护先宋铯味捞丐萘てを表Fし、Y末を暗示するために、一つの女性は唯一の花に辘贰⒆苑偈证辘工牖à浃à胜ぁ¥饯筏啤『t楼簟护吓性の性格と葙|を重しているが、『源氏物Z』は重点を女性の姿に置いた。最後に、要するに、その`いのある原因は日本人のH植物性と文学上の主情性と中日花文化の`いであることをじた。
本は一つの方面から中日文学の同をじる。しかし、もっとよく中日の比^文学を理解したいなら、もっと多くの作品とほかの方面から探さなければならない。それゆえ、これを今後のn}に残してにしたい。
参考文献
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x辞
二○一一年十月、研究テ`マ『中日「美人を名花に譬える」F象における一考察DD『源氏物Z』と『t楼簟护蛑行膜恕护Qめてから、これをめぐって、き始めました。文をくうちに、指Ы坦伽颏悉袱帷⒏飨壬のご支持とご援助を受けさせていただきました。ここで心から先生方に感xいたします。クラスメ`トの皆も拙のくに、f力をくれました。クラスメ`トの皆にも心から感xします。先生方の、友_の助けがなければ、拙はうまくけなかったのです。
拙をくとき、参考した先行研究の作者に感xいたします。彼らの研究成果がありますから、初めて拙があるのです。答弁委T会の皆にご意いただきましたことを感xいたします。
最新日语毕业论文范文二:
アニメへの信仰心をYびつける若者の新しい宗教Q
要旨
本文ではアニメ作品の外部に存在する宗教的要素についてみていく。作品の外部に存在する宗教的要素とは、その作品の内容自体には宗教的要素がそれほど登訾筏皮い胜い摔猡かわらず、外的要因によってその作品とYびつけられている宗教的要素を指す。ファンたちがアニメ作品の}地巡礼として行っている神社参がその例である。本文ではテレビや新などのメディアでも多く取り上げられた「らきすた」と「楣BASARA」の事例を示す。それらから、アニメの外部にFれている宗教的要素とその役割、そしてアニメと若者の宗教的行椁伍vS性について考察する。
キ`ワ`ド:アニメ 宗教Q 若者
1. はじめに
F代の日本をてみると、Lいs史を持った日本古来の宗教やそれにvBした行事は、日本人の日常生活の一部となる中でその宗教性をJRされなくなってきている。その一方でクリスマスといった外来の宗教行事が、一Nのイベントとして日本人の生活の中に深く浸透している。それはつまり、今の日本は々な宗教が身近に存在し、それらが日本人の生活に定着している一方で、宗教が宗教としてJRされていない状Bなのである。また、F代の日本人は一般的にo宗教的だと、主Q的にも客Q的にもJRされている。このようにF代の日本は、宗教のがeれているr代である。このような状rの中、宗教はF代の日本文化にどのような影を与えているだろうか。そして宗教とF代の日本文化はどのようなvS性を持っているだろうか。この文ではF代日本を代表する文化の一つであるアニメと、日本に存在する宗教の中でも古来より信仰されている神道を主に取り上げる。アニメにおいて宗教的要素がどのようにFれ、どのような役割を果たしているかをていき、アニメと宗教のvS性を考察する。文の造としては、本文では、「らきすた」と「楣BASARA」を例にい病⑼獾囊因によってアニメとYび付けられる宗教的要素について考察する。
2. 先行研究
インタ`ネットでいろいろと{べたが、国内では大分日本のアニメbIとかアニメの表Fとかの研究である。アニメと宗教のvSについての研究はそんなに多くないである。私の文は
それらに比べ物にならないだが、本文はアニメにおける宗教的要素はそれにする信仰心を者に想起させる役割を果たし、一方でアニメは新しい宗教的Qをも生み出している。このようにアニメと宗教は相互に影を与え合うという、非常にいvS性を持っていることに视している。
3. 「らきすた」と「楣BASARA」の事例
3.1 「らきすた」の事例
「らきすた」は、美水かがみによる同名コミックを原作として、年に独立UHF 局で放送されたアニメ作品である。女子高生の日常をコメディタッチに描いたアニメであり、作品自体には宗教的要素はほとんど登訾筏胜ぁV饕登鋈宋铯扦る挨がみ、つかさ妹のg家がm神社という神社であり、彼女たちが巫女として神社でPくシ`ンが作中に登訾工毪挨椁い扦る。しかしアニメjIなどでm神社のモデルとして斡癖hm町のm神社がB介されたことにより、ファンがアニメに登訾筏鏊としてm神社をLれるようになった。m神社はv|最古の大社と言われるなど、非常にLいs史を持った神社である。そんなm神社で、アニメファンたちが「らきすた」の登鋈宋铯违ぅ楗攻趣蚪}Rにきのこし、登鋈宋铯违偿攻抓欷颏筏撇を行う姿などがテレビなどで大きく取りあげられた。そしてm町の商工会が独自のアニメグッツ制作やイベントの\婴胜伞⒌赜蛘衽d策に取りMんだY果、m神社をLれるファンの数はえAけた。それは初の参客数が 年にはその年の斡癖h内第3 位となるs30 万人、年には第2 位となるs42 万人、年には^去最高の45 万人に_したほどである。
3.2 「楣BASARA」の事例
「楣BASARA」は、同名のアクションゲ`ムを原作として2009 年にTBS 系列で放送されたアニメ作品である。楣r代を舞台に、O定や外を大胆にアレンジされた、g在する楣武将たちの荒唐o稽な椁い蛎瑜い孔髌筏扦り、「らきすた」と同に宗教的要素をQっているわけではない。しかしながら、ゲ`ムやアニメのヒットによって女性ファンのgで楣武将ブ`ムが起こり、主人公の一人である伊_正宗ゆかりの地である、仙台城Eにあるm城ho国神社に多くの女性ファンがLれた。m城ho国神社は、明治37 年に招魂社としてtされた神社で、F在はm城h出身の槊徽撙蛑行膜硕啶の英が祭られている。以前は中高年婴尾客が多かったが、F在では若い女性の参客がえ、アニメやゲ`ムに出てくる楣武将のイラストを}Rに残していく姿がよくみられるという。
4. 若者の宗教性と}地巡礼における神社参とのvS性
4.1 若者の宗教性の特
F代において、日本人の宗教にするd味、v心は希薄である。それは朝日新のの{摔恰缸诮踏伺d味がない」と答えた人が77%に上ったというY果や、さまざまな{摔恰柑囟à涡叛訾虺证摹工却黏à敫詈悉しだいにp少し、F在では3 割を切っているというF状から分かる。しかしながら日本では、一年を通して初や七五三またクリスマスなどの々な宗教的行事を多く行われ、朝日新の{摔摔瑜毪热国平均でs半数の家庭にや神棚があるなど、日常生活に宗教が根付いているのも事gである。このような状rから考えると、日本人はo意Rのうちに々な宗教を受け入れ、宗教にする信仰心がありながらも、eO的に特定の宗教を信仰することや、自的に宗教に接するC会が少ないという意味で宗教性が薄いと言える。
そのなかでアニメファンの中心である10 代から30 代の若者の宗教性はどのようなものであろうか。若者にvしては々な{摔恰「信仰がある」とする割合が他の年代に比べて低い、「宗教を大切にする」とするよりも「宗教を大切にしない」とする割合の方が多い、「神どちらかを信じている」とする割合もp少しAけているなどのY果が出ている。これらの{私Y果から、若者は唤y的な宗教や既存の宗教にするd味やv心が低いことが分かる。また他の年代に比べて墓参りや初以外はあまり行っていないという{私Y果から、若者には宗教的行椁蛐肖C会も少ないと言える。このように若者は他の年代に比べてさらに宗教性が薄いのである。
しかしながら初にvしては特盏膜恰⑺の年代よりもg施する割合が高く、しかもg施する割合は年々加している。したがって若者は宗教的行椁沃肖扦獬踉にしてはv心が高いと言える。ただし、そうは言っても若者と神社のつながりが特eいというわけでない。初以外で神社に参するC会が少なく、自分の住んでいる地域の神社とvS性をもたない割合が四割を超えるなど神社自体にvするv心は低いのである。これは初が日本人の年中行事として定着するなかで、宗教行事としてみなされることが少なくなり、若者にとって一Nのイベントとなっていると考えることができる。
4.2 若者の宗教性の特栅嚷}地巡礼における神社参とのvS性
若者の宗教性の特栅仙嫌のとおり、「既存の宗教全般にするv心は薄いが、初にvしては行う割合が高い」というものであった。ではこのような若者の宗教性とアニメ作品の}地巡礼における神社参はどのようなvS性があるだろうか。神社にする参というものは元々、伊萆mで祀られている天照大神、出大社で祀られている大国主の命みこと、全国に存在するR荷神社や八幡神社におけるR荷信仰、八幡信仰など、各社の祭神への信仰心によるものであった。初も住んでいる地域の氏神神社やその年の{方、すなわちF起が良いとされる方向の神社へ参するものであり、神が居住まいを正して来Rしてくる「ハレ」のrである正月において、神を清筏市纳恧怯える行事であった。これらは日本人に代々根付いてきた素朴な信仰心によるものと言えよう。
しかしながらアニメファンの}地巡礼における神社参は、そのような纠搐巫诮痰Qや信仰心のもとで行われているものではない。外面的には日本の唤yにのっとった宗教的行椁扦悉るのだが、神社への参を行うアニメファンの原恿Δ趣胜盲皮い毪韦膝ニメ作品にするd味やv心という、日本人に根付いてきた信仰心とは全くeのものであるである。そして、}地巡礼という言~がもともと宗教的な用Zであることを考えると、アニメ作品の}地巡礼の原恿Δ趣胜毪长闻d味やv心というのは、そのアニメ作品にする信仰心と言いかえることができるであろう。つまりアニメ作品という、虚であり、これまでなかった存在にする新しい形の信仰心が、神社への参という唤y的な宗教的行椁私Yびついているのである。
アニメファンの中心である若者は既存の宗教にするv心は薄いかもしれない。しかしながら、アニメにする信仰心がgHの宗教的行椁g践に影を与える、つまりまったくeのものを既存の宗教とYび付けるという、新しい宗教Qが彼らから自然と生み出されている。このようにアニメの}地巡礼における神社参というものは、新しい宗教的Qを提示しつつ、日本古来の宗教にしても目を向けさせるという二面性を持った行椁扦る。そしてアニメ作品において、表面的には宗教的要素がFれていなくても、後k的に宗教的要素を持つという可能性も提示している。
5. おわりに
本文では、作品自体には宗教的要素を含んでいないにもかかわらず、ファンの}地巡礼という外的要因によって既存の宗教とYび付けられているアニメ作品として、「らきすた」と「楣BASARA」を取り上げた。これらの作品は、既存の宗教とアニメへの信仰心をYびつける若者の新しい宗教Qと、神社への参という唤y的な宗教行事へのd味やv心を同rに生み出している。これらは先行研究となり、アニメが宗教にして影を及ぼしている例であり、アニメと宗教の新しいvS性を示すものであった。このようにアニメには、自然崇や神道など々な宗教的要素が登訾贰その使われ方も制作者のメッセ`ジの一部としてや、作品の世界Qなどを特栅扭堡毪郡幛胜啥喾N多であった。そしてアニメは宗教に影を受けているだけでなく、逆にF代の宗教的Qに影を与えてさえいる。この文を通じて、一Yびつきが薄そうなアニメと宗教が密接にYびついていることが分かった。そして本でてきたように、アニメにおける宗教的要素はそれにする信仰心を者に想起させる役割を果たし、一方でアニメは新しい宗教的Qをも生み出している。このようにアニメと宗教は相互に影を与え合うという、非常にいvS性を持っているのである。
参考文献:
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『山日日新』、2004 年9 月25 日「跄谯啶晤今度はアニメの舞台に蒌の作家ら尾道でロケハンを」
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叭jp、2010 年1 月5 日「らき☆すた:“}地”m神社の初で客数45万人^去最高、アニメ放送前の5倍に」
篇4:日语毕业论文
日语毕业论文
『平家物語』における無常観について
摘要
《平家物语》成文于日本镰仓时代,描写了平氏一家由荣华走向没落的历史。书中以保元﹑平治之乱中获胜的平家和战败的"源家之间的对比,以及源平两家争战后对平家的追讨过程为中心,生动地再现了当时处在社会变革中逐渐没落的平安贵族与开始登上历史舞台的武士阶级的社会状况。本研究,基于多次通读这部优秀的战记物语,在深刻理解作品描绘的日本中世宗教状况以及人们的宗教理念的基础上,对 “无常”的观念如何贯穿作品始终,为何能够在人们心中打下深深的烙印等诸多问题进行了探讨。
关键词:平家物语;佛教;神道;无常
要旨
『平家物語』は鎌倉時代に成立した、平家一族の栄華と没落を描いた歴史物語である。保元の乱平治の乱に勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落し始めた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事にかきだしている。本研究では、この最高の軍記物語と呼ばれる物語に基づき、中に描かれた日本中世における宗教の状況やそれに対する人々の観念を解読したうえ、なぜ「無常」という感じがいつも現れ、また人々の心に生じたのかという問題を辿り、検討してみたいのである。
キーワード:平家物語;仏教;神道;無常
目次第1章 序論
第2章 『平家物語』について
2.1 物語の成立
2.2 物語の粗筋
2.3 物語における仏教思想
第3章 仏教の日本化
3.1 神に恵まれた国
3.2 藩神到来
3.3 奈良時代の仏教
第4章 所謂「無常観」
4.1 無常観の起源
4.2 『平家物語』における無常観
結論
謝辞
参考文献
第1章 序論
紀元3世紀ぐらいには、すでに日本列島と中国大陸の交流があった。大国文化に対する憧れを抱えて、中国への留学生が派遣された。遣隋使、遣唐使など、時代によってさまざまな呼び名があるけれども、彼らの背負った使命や志が変わることはなかった。律法、制度の導入につれ、東南アジアに盛んでいた仏教がますます注目された。仏教の伝入がもっと前のことであったが、最初はただ貴族たちだけの信仰となっていた。最澄、空海などの留学僧のおかげで、仏教が咲き誇る花のようにだんだん日本各地に、上から下まで広がっていく。しかし、たとえ仏教の世と呼ばれる平安時代派も、いよいよその時代を迎えようとした。時は紀元12世紀半ば、平家一族の盛衰史を生き生きと描いた『平家物語』における時代である。
様々な人物を刻んだこの物語が、壮大なる戦争の場面を見せてくれる。『平家物語』のシンボルとして、無常観がよく知られている。本論文はその「無常」の解読を検討しようと思って、三つの部分になっている。第2章において、まずは物語の紹介や粗筋などを見てみた。第3章において、前回に提出した問題に応じ日本化した仏教について説明した。第4章において、「無常観」の源について探究してみて、また『平家物語』における様々な人物の例を分析した。以上の研究を通して、『平家物語』とその中に溢れる無常観に対する認識を、もっと深めることができよう。
第2章 『平家物語』について
2.1 物語の成立
平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師 の『徒然草』によると、13世紀の初頭の後鳥羽院 のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇の浦で滅亡した1185年から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。
この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円のもとで、公家出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。
2.2 物語の粗筋
平安末期の日本が、まさに大きな変革や騒乱に囲まれていた。仏に仕えるため出家したがまだ政を握っている法皇と、父親に逆らうことのできない、優雅に暮らしていた貴族と政権を把握し始める武家、また兵を所有する各地の領主と領地の争いで離散になった庶民たち。さまざまな原因でこのような乱世を築いたのである。『平家物語』は、平忠盛の始めて昇殿を許された天昇元年から、建礼門院お往生の建久二年まで、約六十年にわたる平家の盛衰をその内容としたもので、史実のみによらず、想像のみによらず、史実と想像とを交わして、史書と物語との中間をいったものである 。
この物語の主人公の平清盛は、その時代のおかげで出世した。安芸守からわずか十数年に、保元の乱や平治の乱を抑える手柄でついに太政大臣までにつき、そのため一族も極の栄誉を手に入れた。公卿に担当する者が十六人、殿上人が三十人余り、日本全土六十六国の中で平家の所有する領地が三十か所くらいでもあった。まさに真っ盛りといえるであろう。
一方、特権を代々受け継ぐ貴族制度が崩れつづあり、私有荘園と武装を持つ地方領主が舞台に上がってきた。『平家物語』いおける人物中、最も多いのはさすがにこれらの武人である。出征途中、竹生島に管弦する、呑気な経正が、よく書かれ散るのは風雅のためで、戦乱の間に、能登殿が大いにもてるのは、勇武のためである。この両者を重ねたものは、まさに時代の寵児で、瀬政や忠盛が特に光って見えるのはそのためである 。一方、武家を代表する平家一族がその時代に活躍できるのも、各地の大名が支えてあげるために違いない。しかし、政権を握った平家は自らの階級の利益に逆らい、貴族のような生活を極めた。また京で二三百余りの少年を選って、かぶろのように髪を切り、一旦平家の御事悪しざまに申す者があれば、すぐに家に乱入し、私財雑具を追捕し、その人を六波羅殿へ捕まえ、このように天下を好きに扱うにした。後に源氏に負けたのも、誠に「盛者必衰」という言葉に当たったのであろう。
『平家物語』はこの両大武家の政権争いを巡り、様々な人物像や社会万象を生き生きと刻み、その同時に中国の歴史典故や詩歌などもよく出てくる。儒教の道徳観や仏教の宿命論が全書に貫き、平安時期武士階級の精神状況も見事に描写した。しかし常に我々の目に立ち頭に浮かべることは、やはりあの時代の仏教の実態であろう。太政大臣平清盛にしても下級武士たちにしても、彼らは自分の運命をすべて仏に預けるような気が強く感じられる。一の谷の戦いで敗退し、死ぬ前にも西に向かい「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と十念する薩摩守忠度や、焔に燃えられるように死去した入道相国。これらの描写は、仏教に対する信仰がいかに強かったのを表す他ならないのである。
2.3 物語における仏教思想
さまざまな変革に迫られていた平安朝の日本は、大陸文化を積極的に吸収する一方、仏教も盛り人々の心に根強く留った。鑑真の東渡、唐招提寺の建設でますます興隆になりつつあった。中世の日本人は仏のことに莫大な関心を持ち、生活の面々にも影響された。平氏の創始者の平忠盛は、鳥羽上皇のため得長寿寺を建てから登殿ができ、一族繁栄の土台を築いたのである。各大寺の座主は必ず親王とか地位の高い公卿とかで担当され、仏教の重要さが言うまでもないことである。
貴族にも関わらず、庶民たちの敬う心も明らかに表わされていた。歌女の妓王は入道殿に捨て去られた後、世間に絶望し、ついに出家した。一時に栄華になった佛でも、「いづれか秋にあわで果っべき」という嘆きさえ出て、出家になったのである。現世が不順ならば、来世を求めた方が良い。妓王たちが出家し極楽を求めた果ては、後に後白河法皇 の長講堂の過去帳にも妓王、、刀自、佛などが尊霊と記録されていた。彼らの宿願が叶えたとしても、かなり憐れむことであろう。このように仏法興隆から二三百年の間に、仏教がだんだん本土化また日本化になり、自ら独特の精神教義が出てきたのである。しかし、時は仏法衰微の時期になった。武士豪族の争いで戦争を招き、天下が不安になり続いた。源氏を潰し都から追い払ってから、平氏はまつり事を独断していた。失意した貴族や武士は相次ぎに出家し、来世の福祉を祈ることが多かった。動揺した態勢が人間を恐慌させ、諸行無常の観念もいつの間に人々の心から生じ蔓延り、仏教はこのように俗世間を離れる最もいい口実となった。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。驕れるものの久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」。この哀唱をはじめとして、平家十二巻を貫くものは、無常観であり無常の哀感である。いわゆる「無常」、つもり変化の意を表し、世間の物がいつも無限の変化にあったという仏教の基本的認識である。「無常」の生まれは、日本列島独特の自然環境にも深くかかわったと思う。地震、火山、津波、日本民族は昔からこのような災害で生きていた。人間の死去、建物の壊滅、これらの全ては人の精神状況に影響し、存在することがいかに実在的でなく、幻の感覚までも出てきたのでしょう。しかし、広く伝わる仏教こそ、その無常の現れの重要な要素だと思う。なぜ大陸から伝来した仏教が日本国でこんな差異が出たのか。またその異化された仏教に対する認識は、「無常」を形成してきたのでしょか。その両者の間に、きっと何かのかかわりがあるのである。ならば、宗教の面から、その「無常」の起源を辿りしよう。
第3章 仏教の日本化
3.1 神に恵まれた国
長く狭くて、また海に包まれる土地、それが日本列島である。島国として、自然環境がきびしいどころか、時々地震や火山や津波の災害も起こり、結構大変であった。こんな状況で生きてきた日本民族は、言うまでもなく大自然に尊敬かつ怯える感じが生じられなくてはいられなかった。農業生産の豊作や一族の繁栄安全など、これらの不安定な要素をすべて「あるもの」の意志とされば、やがて「神」という言葉が出てきたのである。祖先の崇拝や形のない霊を祭る中で、自然の大いなる力に恵まれているという気持ちも抱えられてきた。『古事記』の編纂により、始めて文の形で日本国と日本人の由来の伝説などを述べ、神の子孫としての誇りが明らかである。
祖先や自然神を尊崇しながら形成したものは、民族宗教であった。それは他の民族の宗教と同じく、最初は単に村全体の繁栄や安全のため祈った行事であった。村人は神社を作り、そこで祭りを行うことにした。古墳時代後期になると、農業生産の進みにより社会の変化が大きかった。家族、氏族などが生まれ、それに対して相応の氏族神も誕生したのである。にもかかわらず、信仰される神が変わっても、その祈りの本質は変わらなかった。こういう時期の民族信仰は、まだ個人的な「福を招き、禍を消す」という念願を実現するために存在していて、教義や理念などは全くなかった。無知な人々は厳しい生存状況で生きられるため、常に神に恵まれるというような感じが生じた方が、心の安らかさができるでしょう。これは最初の「神道」というものである。やがて日本社会の発展に伴い、国家の形で政を処理するには、もっと優れた制度が望ましかった。海の向こう、大陸の中国から国政を学ぶ同時に接触した新たな宗教――仏教も日本の舞台に上げたのである。
3.2 藩神到来
紀元522年百済明王は使節を派遣、日本に仏像を献じた。よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた。『日本書紀』によると、その献上した仏像を祭るかどうかについて、当時の欽明 の大臣たちは激しい論争に陥った。崇仏派の蘇我氏は「諸外国が尊敬する以上、わが日本国も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が国が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強く反発したのである。両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時間に続いた。仏教の初登場が激しい反対の声に遭遇したのは、上記の言うとおり本来民族宗教がすでに存在しているほか、当時の政治体制にも深くかかわっていた。朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった。前からも帰化人や大陸文化に接触し先進文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる機会で、物部氏との闘争に劣勢に処する一族の権力を固めようとした。しかし、伝統権威や民族宗教を支柱とした物部氏は、外来神の仏の伝来に対しては必ず反対の声を響かせるしかなかった。それにもかかわらず、歴史の進むプロセスはいつも止まることがないのである。どんどん政を独断してきた物部氏に、やがて皇室からの不満が出てきた。聖徳太子と手を組んだ蘇我氏は物部氏を潰してから、新たな宗教――仏教がようやく日本全土に伝わることができた。
3.3 奈良時代の仏教
すでに天下へと仏教が広げられ、ならば万民に信仰させ、国の安泰のため仏法を発展向上させるべきである。しかし、事実はそうではなった。国家を守護し制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった。朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都会仏教」とも呼ばれた。興隆期となった奈良時代の日本仏教は、インドと中国での伝統仏教と違い、基本的な戒律さえも離れ、僧侶は民間へ伝教するようなことをせず、単なる貴族たちに仕えるだけである。ついに国の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する勢力となってきた。こういう時期の仏教は新たな事物として政権争いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである。しかし、寵愛を一身にしても、所詮外来宗教や政治道具である。律令国家の確立に伴い、の力がますます高き、蘇我氏一族を始末してからやがて君臨するようになった。伝統権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた。大化の革新に制定した「大宝律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏はから直々の任命、太政大臣同級の者であるが、仏教諸事を処理する機構はただただ治部省所轄の玄蕃寮であった。神高仏低の状態における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした。その表現の一つが神社で経文の朗読を許し、いわゆる「神前念仏」である。
初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民間へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである。宗教というと、それが現世のことを第一に、生活の安定さや幸せさを祈るはずだと思われた。ですから仏教の来世主義、死後の世界に憧れる考えが一時に納得されるわけはなかった。一方、元来ただ神社に参ることで宿願をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や決まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった。これはさまざま不確定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立場にあった前途不明の奈良時代仏教である。
第4章 所謂「無常観」
4.1 無常観の起源
「神」と「仏」の関係転換がただ二三百年かかったといっても、その過程はかなり複雑とは言えよう。いつも原始神道の感化で生きてきた庶民たちにとって、きゅうに別の「神」に信じさせるのは考えられないと思う。固有的な考えを破りにくいので、こういう時に観念転化は必要とする。『平家物語』を読むと、「熊野権現」、「八幡菩薩」などの言葉がよく見られる。特に比叡山の「山王権現」がなかなか権威をおち、山門衆はいつも神與振 の形で朝廷の命令に逆らうことがあり、朝廷を従わせる。日本の諸神に菩薩号を与え、菩薩の神力をつける新たな有力神を作ったわけである。これが本地垂迹である。「本地」即ち物の源や本来面目、ここは仏の本体を表す。「垂迹」は極楽の仏が万民を救うためあるものを借り日本で現れることを指す。そしてその借りものが日本の元来に存在している「神」である。日本の神々は、本々仏の恩恵を人たちに賜るため、現れる仏の「分身」である。
本地垂迹の形で、仏教と神道の衝突を最大限度に下げることができた。人々の固有の信仰を潰せずに仏教の信仰へと導き、両者に対する信仰を折衷し一つの信仰体系として再構成することである。乱世に生み出した「無常」、仏教から出てきた往生思想、これらを交わして生まれるものは、「無常観」だと思う。
4.2 『平家物語』における無常観
前にも「無常」の意味を解釈したが、それはかなり簡単で、なかなか理解できないであろう。実は、論理的なことをほうっておいて無常観つまり、何時も変化している現世に対して厭きを感じると言えよう。この厭きを積んだうえ、不満や辛さも出てくる。一旦そうなると、来世や未知の極楽世界に憧れることもやむを得ずに生じる。ここの「無常」は単なる乱世に対する動揺不安に気になり、世の中のことに信念を失ったばかりではない。中国でもどの国でも、昔には必ずある揺れる時期があるに違いない。その時の人間は、あくまで厭世という感情が出てくるだけである。しかし日本中世における「無常」は、それなりの特質があると思う。その表現の具体化は出家、隠遁ということである。前回の述べたように、奈良時代から神道の陰に置かれた仏教であるが、教理と精神実質のある宗教として決してそのままではいられなかった。神道が仏教の戒律などをかり、自らを充実していこうとして、神の御前の念仏を許したわけである。しかし、実は仏教こそこの絶好の機会で宣伝されることができた。神仏が同所で、神即ち仏、仏つまり神というような錯覚は民衆の心に留まり、個人の利益を求めるために祈るなら、どんな神像に頼んでもよいではないかと思われた。
この溶け合う中で、一番影響されたのが人々の考え、特に死生観そのものである。これらの代表的な例として、『平家物語』に登場した熊谷次郎直実をあげることができよう。無骨の武士である直実は、功名心から敵の頭を切り、武勲をあげることに全精力を傾け罪悪感とは無縁なや武士的な人生を送っていた。しかし、「敦盛最後」にあるように、一の谷で、直実は彼の子供の小次郎と同年と思われる敦盛の首を、泣く泣くに切ってしまう羽目になる。その後、直実の人生に影を落としたものは、殺生を犯した者の罪業観と罪障観であった。それが彼の出家した原因とも考えられている。また、『平家物語』巻十の「戒文」を参考し、平重衡と法然 上人の交渉から、重衡の来世の死生観についてみてみよう。三位中将重衡は南都焼討で悪名高いが、治承四年十二月に平家軍は南都の敵を攻撃している最中に、図らずに東大寺や興福寺などの諸事を焼いてしまった。その後、重衡は墨俣川の戦いや水島の戦いで勝ったが、一の谷の戦いで捕まえられ、鎌倉へ護送されてしまう。彼は鎌倉へ護送の前には、法然を招いて出家しようと思った。南都の諸寺を焼き払ってしまった重衡は、罪の意識を感じ、往生への道が完全に閉ざされてしまったことを自覚した。しかしながら、どうしてもその罪障観から救済されたく、善知識である法然上人に少しの望みを託したわけである。意外なのは、ただの「一声称念罪皆除」と念すれば、何の罪でも消えていくと重衡に明快に答え、浄土宗の基本理念を表したのである。『平家物語』では、この世を無意味だとする精神が、往々にしてこの世を離れがたいものとする精神に圧倒されているのを次々の叙述の中に見ることができると思う。小松殿の息子維盛が何とかして山伝いに京都へ上がって恋しい妻子にもう一度会いたいが、生捕りになった重衡のような目には会いたくない、いっそここで出家して、火の中へでも水の底へでも入りたいと思う、という意味のことを言うと、それに対して高野聖滝口入道が「夢幻の世の中は、とてもかくても候ひなん。長き世の闇こそ心受かるべう候へ。」と、言い聞かせるところがある。そこでは、この世を「夢幻の世の中」などと言って無意味なものとする精神が、優位を占めている。維盛の妻子にもう一度会いたいという気持ちは、それを持って現世的なものへのいたずらな執着だとする仏教思想によって、抑えられている。そのあたりは一応「断ち切る」物語の様相を見せている。
これですこし分かるようになるであろう。中世、平安時代になると、仏教がようやく「神高仏低」の状態から出て、逆に「神低仏高」のように転換された。宗教の重心が変え、それに導き日本にも適切な理論が望ましかった。一番代表的なのが法然の輝いた浄土宗である。「称名」念仏という専修念仏を説いて、仏教の広がりに極大の役割を果たした。往生することがいかに簡単なことなので、信ずる者も多くなり、尊君思想をいつも心の中に置き死を恐れることのない武士たちさえも出家などを行い、来世を求める。往生を念じれば現世に対する不信がもっと深く、極楽を望めば無常についての信念がさらに強く。わずか二三百年で、まるで人々の考えが全く違い、仏教の思想が完全に人たちの頭に染み込んでいたというような気がする。しかし、神道の働きをなくしては考えられなく、むしろ神道の土台があるこそ、こんなに速やかな達成ができたのである。
結論
『平家物語』は庶民、貴族、武士、さまざまな人物像を生かし、彼らの運命の起伏を描写して、その中に貫く「無常観」を訴えるのである。神仏の融合は日本中世における特別の現象で、自分の国の未熟な宗教文化を守り、さらに良い発展を遂げようとする考えで、仏教を利用したのである。神仏習合の産物として、無常の思想が結構長い間に日本人の考えを抑えた。小論はこのような検討を通じ、「無常観」というのが、単なる現世に不満や失望を混じる無常ではなくて、それがまた日本化した仏教の思想を吸収してから、往生の考えを加える来世に憧れる宿命論だということが分かった。このような宗教理念は、日本の中世に深く影響を与え、日蓮宗や真言宗などの派閥も形成してきた。素晴らしいことに、日本民族はこのようにいつも積極的にすぐれたことを取り込み利用したおかげで、どんどんよい国家になってきたのではなかろうか。
謝辞
四ヶ月を経て、多くの方々のご指導及びご協力のお陰で、順調に本論文を書き上げることができました。心より感謝の意を述べさせていただきたいと思います。
まず、この四年間にいろいろとお世話になって、日本語学部の先生方々に厚く御礼を申し上げます。
そして、本論文を書いている間に、テーマの選定から論文の構造まで、指導教官である李冬松先生に大変貴重なご意見をいただき、先生のなみなみならぬご協力があるこそ、論文をうまく完成することができました。ここで感謝いたします。
また、小論を審査し、答弁会にご出席の先生方に厚く感謝の意を申しあげます。
最後に、この場をお借りして、いつも応援してくれた先輩たちや友達にも、感謝いたします。
参考文献
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[10]方海燕《论日本神道教的现世性特征——以中世以前神道和佛教的相互关系为中心》日语学习与研究2007,2:39-43
篇5:经典毕业论文提纲
编写提纲的步骤:
(一)确定论文提要,再加进材料,形成全文的概要
论文提要是内容提纲的雏型。一般书、教学参考书都有反映全书内容的提要,以便读者一翻提要就知道书的大概内容。我们写论文也需要先写出论文提要。在执笔前把论文的题目和大标题、小标题列出来,再把选用的材料插进去,就形成了论文内容的提要。
(二)原稿纸页数的分配
写好毕业论文的提要之后,要根据论文的内容考虑篇幅的长短,文章的各个部分,大体上要写多少字。如计划写20页原稿纸(每页300字)的论文,考虑序论用1页,本论用17页,结论用1—2页。本论部分再进行分配,如本论共有四项,可以第一项3—4页,第二项用4—5页,第三项3—4页,第四项6—7页。有这样的分配,便于资料的配备和安排,写作能更有计划。毕业论文的长短一般规定为5000—6000字,因为过短,问题很难讲透,而作为毕业论文也不宜过长,这是一般大专、本科学生的理论基础、实践经验所决定的。
(三)编写提纲
论文提纲可分为简单提纲和详细提纲两种。简单提纲是高度概括的,只提示论文的要点,如何展开则不涉及。这种提纲虽然简单,但由于它是经过深思熟虑构成的,写作时能顺利进行。没有这种准备,边想边写很难顺利地写下去。以《育和完善建筑劳动力市场的思考》为例,简单提纲可以写成下面这样:
一、序论
二、本论
(一)培育建筑劳动力市场的前提条件
(二)目前建筑劳动力市场的基本现状
(三)培育和完善建筑劳动力市场的对策
三、结论
详细提纲,是把论文的主要论点和展开部分较为详细地列出来。如果在写作之前准备了详细提纲,那么,执笔时就能更顺利。下面仍以《育和完善建筑劳动力市场的思考》为例,介绍详细提纲的写法:
一、序论
1.提出中心论题;
2,说明写作意图。
二、本论
(一)培育建筑劳动力市场的前提条件
1.市场经济体制的确立,为建筑劳动力市场的产生创造了宏观环境;
2.建筑产品市场的形成,对建筑劳动力市场的培育提出了现实的要求;
3.城乡体制改革的深化,为建筑劳动力市场的形成提供了可靠的保证;
4.建筑劳动力市场的建立,是建筑行业用工特殊性的内在要求。
(二)目前建筑劳动力市场的基本现状
1.供大于求的买方市场;
2.有市无场的隐形市场;
3.易进难出的畸形市场;
4.交易无序的自发市场。
(三)培育和完善建筑劳动力市场的对策
篇6:毕业论文提纲
论文提纲是作者构思谋篇的具体体现。便于作者有条理地安排材料、展开论证。有了一个好的提纲,就能纲举目张,提纲挚领,掌握全篇论文的基本骨架,使论文的结构完整统一;就能分清层次,明确重点,周密地谋篇布局,使总论点和分论点有机地统一起来;也就能够按照各部分的要求安排、组织、利用资料,决定取舍,最大限度地发挥资料的作用。
一、引言………………………………………………………………………1
(一)研究的缘起………………………………………………………………1
(二)本文的研究思路、方法及意义…………………………………………3
(三)相关概念界定……………………………………………………………4
二、研究综述…………………………………………………………………5
(一)校长领导行为的研究综述………………………………………………5
(二)革型领导的研究综述……………………………………………7
本文导航 1、首页2、毕业论文提纲范例-2
三、调查工具与实施………………………………………………………9
(一)研究对象…………………………………………………………………9
(二)调查工具…………………………………………………………………9
(三)调查步骤……………………………………………………………… 10
(四)数据统计……………………………………………………………… 13
四、结果与讨论…………………………………………………………… 15
(一)统计结果……………………………………………………………… 15
(二)分析与讨论…………………………………………………………… 18
(三)研究结论……………………………………………………………… 20
五、对策与建议…………………………………………………………… 23
(一)校长为学校的长远发展实施愿景领导……………………………… 23
(二)校长通过给教师授权,以正确发挥和使用自身权力……………… 24
(三)校长通过转变组织职能,加强对教师的激励和关怀……………… 26
(四)不断完善校长任职和培训要求,促进校长素质发展……………… 27
六、结语………………………………………………………………………31
参考文献………………………………………………………………………32
附录…………………………………………………………………………… 33
注:页首三号黑体字居中打印“目录”两字,两字之间空四格。空一行后打印标题及对应的页码。一级标题用黑体四号字,二级标题用小四号宋体字,均为单倍行距。目录内容最好在一页,页下无需注明页码。
篇7:毕业论文提纲
论环境保护与贸易发展的关系
一、当前的形式
我国现阶段的环保及经济发展所存在的问题
1. 高污染,高能耗的经济发展模式所带来的弊端
2. 给经济发展带来的影响:以更高的代价去修复环境问题
二、原因
三、对策:可持续发展战略
一)可持续发展战略的提出
二)环保与可持续发展战略
三)可持续发展战略与贸易经济的关系
以实例论证
一)“限塑令”的实施对环境保护产生了什么样的影响
二)“限塑令”带来了什么样的产业发展及其经济效益如何
三)限塑令是适应了可持续发展战略的
四·环保与经济发展并存
一)怎样做到既发展经济又保护了环境呢?
二)所取得的成效如何?
三)在次证实了二者并存
篇8:毕业论文提纲参考
目 录
引言
一、我国外贸依存度的现状
二、我国名义外贸依存度提升的原因
三、我国外贸依存度实际水平的估算和与国际间贸易的比较
(一)我国外贸依存度实际水平的估算
1、加工贸易在对外贸易结构中的比重较大
2、我国gdp总值被低估
3、汇率的影响
4、外资企业的影响
5、产业结构的影响
(二)我国外贸依存度的实际水平的国际比较
四、外贸依存度增高对我国经济的影响
(一)外贸依存度增高对我国经济的不利影响
1、对外贸易摩擦加剧
2、影响国家经济安全
3、影响国内产业发展
4、恶化贸易条件
(二)外贸依存度增高对我国经济有利影响
篇9:毕业论文提纲格式
目录:
摘要:本文简要介绍了网络环境协作学习的意义,以及网络教学下协作学习的特点,基于网络下学习的自我体会-(100字)
引言------------------------------------------------------(200字)
一、网络教学(1000字)
1.1.网络教学下协作学习-------------------------
1.2.网络教学下协作学习与传统教学的比较分析
1.3.网络教学下协作学习的优势----------------
二、协作学习的组织形式及其原则(1000字)
2.1.协作学习的组织形式-------------------------
2.2.协作学习的组织原则-------------------------
三、协作学习的基本要素分析(1000字)----
四、网络教学下协作学习的实现方式(字)
5.1.角色扮演------------------------
5.2.伙伴------------------------------
5.3.竞争------------------------------
5.4.协同------------------------------
5.5.辩论------------------------------
5.6.问题解决------------------------
5.7.设计------------------------------
五、基于网络下学习的自我体会(1000字)
六、结论(300字)--------------------------------
七、参考文献(100字)--------------------------
篇10:毕业论文提纲格式
1、论文题目:要求准确、简练、醒目、新颖。
2、目录:目录是论文中主要段落的简表。(短篇论文不必列目录)
3、提要:是文章主要内容的摘录,要求短、精、完整。字数少可几十字,多不超过三百字为宜。
4、关键词或主题词:关键词是从论文的题名、提要和正文中选取出来的,是对表述论文的中心内容有实质意义的词汇。关键词是用作机系统标引论文内容特征的词语,便于信息系统汇集,以供读者检索。 每篇论文一般选取3-8个词汇作为关键词,另起一行,排在“提要”的左下方。
主题词是经过规范化的词,在确定主题词时,要对论文进行主题,依照标引和组配规则转换成主题词表中的规范词语。
5、论文正文:
(1)引言:引言又称前言、序言和导言,用在论文的开头。 引言一般要概括地写出作者意图,说明选题的目的和意义, 并指出论文写作的范围。引言要短小精悍、紧扣主题。
〈2)论文正文:正文是论文的主体,正文应包括论点、论据、论证过程和结论。主体部分包括以下内容:
a、提出-论点;
b、分析问题-论据和论证;
c、解决问题-论证与步骤;
d、结论。
6、一篇论文的参考文献是将论文在和写作中可参考或引证的主要文献资料,列于论文的末尾。参考文献应另起一页,标注方式按《gb7714-87文后参考文献著录规则》进行。
中文:标题--作者--出版物信息(版地、版者、版期):作者--标题--出版物信息
所列参考文献的要求是:
(1)所列参考文献应是正式出版物,以便读者考证。
(2)所列举的参考文献要标明序号、著作或文章的标题、作者、出版物信息。
论文提纲也可以用最简单的格式和分类,简单明了地说明论文的目的、依据和意义,甚至是两句话。这种提纲往往是用于科学论文,而且在对于各种概念有相互联系而不是孤立的出来讨论的情况下。如果总要分出1、2、3、、、、、、点来写的话,往往会变成“八股文”的模式,这样的论文往往是应付式的论文,其真正的科学价值会大打折扣。
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篇11:毕业论文提纲格式
论文摘要:信息技术的应用使得电子商务获得了巨大发展,同时,零售业作为直接与消费者交易的行业有连锁发展的趋势,而且在经济发展中越来越重要。连锁企业经营的优势不在于数量的多少,而是企业本身是否实现了低成本的物流配送、管理体系是否完善。电子商务的应用对于提高连锁零售企业的竞争力具有重要作用。
本文研究的目的就是了解我国连锁零售企业当前应用电子商务的现状及存在问题,并改进实施策略,使电子商务在我国连锁零售企业中起到积极的作用。
本文阐述了研究背景和现状;论述了电子商务在国外连锁零售企业应用的重要性;通过分析电子商务在国外连锁零售企业中的应用,论述了我国电子商务在连锁零售企业应用中的模式及存在的问题并且建立了电子商务应用效果评价模型,最后列举了连锁零售企业电子商务实例,并进行定量分析。
关键词:连锁零售企业 电子商务 物流配送 效果评价模型
目 录
第一章 绪 论
1.1 研究背景
1.2 研究现状
第二章 连锁零售企业电子商务概述及应用现状
2.1 电子商务及连锁零售简介
2.2 电子商务与连锁零售企业的关系
2.2.1 传统零售业与电子商务的关系
2.2.2 现代零售业与电子商务的关系
[4]强锦敏.当前社会弱势群体的成因及对策[J].新疆社科论坛,2003(3)
[5]钱再见.中国社会弱势群体及其社会支持政策[J]. 江海学刊,2002-3
[6]高海燕.试析和谐社会建设中的弱势群体[J]. 继续教育研究,2008-3
[7]牟永福.经济社会学视角下的弱势群体问题及其政策导向[J]. 商场现代化,2005-10.137-138
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